インドがイギリスから独立するまでの歴史|ラーマやガンディーの活動も解説

現在、急速な経済成長と人口増加を続けているインドですが、正式に独立したのは1947年8月15日です。インドの独立が遅かった背景には、イギリスとの関係が大きく関わっています。

本記事では、インドがイギリスから独立するまでの歴史と、独立に大きくかかわったラーマやガンディーの活動を中心に解説していきます。インドの歴史に興味を持っている人は、最後まで読み進めてみてください。

インドがイギリスの植民地になった理由

イギリス兵の模型

そもそも、なぜインドはイギリスの植民地になったのでしょうか?

  • ムガル帝国の繁栄と衰退
  • イギリスとフランスの競争
  • イギリス東インド会社による統治

上記を解説することで、インドが植民地になるまでの歴史を理解できます。

ムガル帝国の繁栄と衰退

1526年当時、インドではムガル帝国が建国されました。ムガル帝国の建国者はモンゴル帝国の末裔と言われているバーブルです。

ムガルには、「モンゴル人の」という意味があり、ムガル帝国の歴史にモンゴル帝国の影響があったことが分かります。モンゴル帝国は、13世紀初めにチンギス=ハンが率いたことが有名で、最盛期には中国北部、中央アジア、西トルキスタンまで勢力を広げた大帝国です。

13歳で即位したムガル帝国の第3代皇帝アクバルは、領土を北インド全域まで拡大し、都をアグラへ移しました。1564年からはアグラ城の建設を開始し、イスラム教を信仰していない非ムスリムに課されていた人頭税を廃止するなど、国内外に影響力を与えます。

アグラ城だけでなく、現在でも観光名所として有名なタージ・マハルが建設されたのも、このムガル帝国期です。タージ・マハルは、第5代皇帝のシャー・ジャハーンの命令によって建設されました。

第6代皇帝アウランゼーブ時代に、ムガル帝国の領土は最大になりました。しかし、人頭税を復活させるなどの過酷な課税とイスラム教への強すぎる信仰心から各地で反乱が増え、ムガル帝国は休息に衰退していきます。

参照:インドのタージ・マハルはいつ建てられた?歴史と魅力や見どころを解説

イギリスとフランスの植民地競争

アウラングゼーブが亡くなった後、ムガル帝国の領土は縮小し、最後には1648年に都を移したデリー周辺のみになりました。ムガル帝国の衰退と共にイギリスとフランスが続々とインド沿岸部に進出し、領土争いを始めます。

イギリスは1600年にカルカッタでイギリス東インド会社を設立していたこともあり、ムガル帝国が衰退すると拠点をムンバイやチェンナイにまで広げていきます。やや遅れて、フランスもフランス東インド会社を設立し、南部のポンディシェリに拠点を構えました。

その後、イギリスとフランスの植民地獲得競争は過熱します。1756年に両国間で7年戦争、1757年にはインドのベンガル地方でプラッシーの戦いが始まり、イギリスが勝利するとイギリスがインド全域への影響力を強めます。

フランスの領有はポンディシェリとシャンデルナゴルだけになり、その他の権益は全てイギリスのものとなり、イギリスがインド全土を植民地化する道が開かれたのです。

イギリス東インド会社による統治

当時、インドを支配していたのはイギリス東インド会社でした。当初は商業活動の許可を得た企業団体にすぎませんでしたが、次第に軍備を拡大し、インド国内の土地を獲得していきます。

イギリス東インド会社の手法は、敵対するインド国内の勢力に軍事力を提供し、代わりに土地の徴税権を獲得するという手法でした。戦いに勝利しても実質的な土地の所有はイギリス東インド会社が行うため、統治する地域がどんどん拡大していきます。

19世紀前半には、インドのほぼ全域をイギリス東インド会社が統治することになります。

イギリスによる統治とインド大反乱

インドの街

イギリスによる統治が始まったインドですが、当然不満が募って反乱を起こすことになります。

  • インド大反乱とムガル帝国の滅亡
  • インド帝国の設立
  • 工業化が進むインド

イギリスが統治するインドでの出来事について、詳しく解説していきます。

インド大反乱とムガル帝国の滅亡

18世紀後半から本格化してきたイギリス支配に対し、インド国内の不満は次第に高まっていきました。

1857年、イギリス東インド会社に雇われていたシパーヒーと呼ばれる傭兵が反乱を起こすと、その反乱はたちまち北インド全域に広がります。

反乱軍は、ムガル帝国の皇帝バハードゥル=シャー2世を担ぎ出し、これは反乱ではなく正当な戦いだというメッセージを打ち出しました。皇帝が軍を率いたことで、反乱には兵士だけでなく多くの市民が参加します。

また、ヒンドゥー教徒とイスラム教徒のムスリムが反乱に参加したことも衝撃を与えます。

イギリス東インド会社は軍を増強して反乱の鎮圧に当たり、都のデリーを陥落させて皇帝のバハードゥル=シャー2世を拘束しました。当時ムガル帝国の皇帝は名ばかりの存在でしたが、この反乱をきっかけにバハードゥル=シャー2世をビルマに流刑にし、ムガル帝国は滅亡しました。

この反乱はインド大反乱として歴史に残されています。

インド帝国の設立

インド大反乱の結果、東インド会社による私的な統治体制は終わりを迎えました。1858年11月にイギリスのヴィクトリア女王がインドの総督となり、直接統治のインド帝国が樹立されます。

当時のイギリスの植民地政策では、女王が現地の皇帝を兼ねるのが一般的で、イギリスの絶対的な統治に逆らえない状況を作っていました。インドはイギリスの植民地政策の中でも重要な位置として、当時貴重だった綿花、茶、アヘンなどの生産に特化していきます。

工業化が進むインド

イギリス統治下で、インドは徐々に近代的な工業化が進展していきます。特に綿工業の分野で発達が著しく、1850年代にはボンベイの綿工場で多数の労働者が雇用されるようになりました。

また、鉄道網整備などインフラ整備も進み、1853年にボンベイとターネーを結ぶ鉄道が開通しています。この交通・運輸網は、次第にインド全土に広がっていきました。

こうした工業化の進展により、現在インド最大の財閥にあたるタタ・グループの創始者ジャムシェッジー・タタなどの資産家が誕生し、ボンベイ産業界の中心人物として独立運動への資金提供を行いました。

インド独立運動の重要人物

ガンディー像

インド独立の父と呼ばれているのはマハトマ・ガンディーですが、インドの独立運動には他にも重要人物がいます。

  • ラーム・モーハン・ローイ
  • マハトマ・ガンディー(本名モハンダス・カラムチャンド・ガンディー)
  • その他の重要人物

特にマハトマ・ガンディーとラーム・モーハン・ローイは、インドの独立に大きく貢献しています。

モーハン・ローイの影響

インド独立運動の先駆者として有名なのが、ベンガル出身のラーム・モーハン・ローイです。ローイはバラモン階級生まれで裕福な家庭で育ち、イギリス東インド会社で働いていたという異例の経歴を持っています。

ローイはイギリス支配にただ反対するだけでなく、工業化などインドの利益になることに関してはむしろイギリス側と捉えられるような考えを示してきました。インドがその後に工業化を勧められたのも、ローイがイギリスの文化を取り入れようと尽力したことが影響しています。

1830年、モーハン・ローイはバラモン階級で初めてイギリスを訪れて議会でインドの現状について発言しますが、1833年にイギリスで死亡してしまいます。

また、ローイは伝統的なヒンドゥー教の寡頭制に異を唱え、新しいインド社会の構築を目指しました。特にサティ(寡婦殉死)や幼児婚などの差別的扱いに強く反対し、その廃止に尽力します。

1829年には、ベンガル総督にサティ禁止令を出させることに成功しました。

参照:インド女性の社会進出の現状|女性を苦しめるインドの慣習を解説

マハトマ・ガンディーの思想

インド独立運動の中心人物となったのが、マハトマ・ガンディーです。本名はモハンダス・カラムチャンド・ガンディーですが、「偉大な魂」という意味のマハトマ・ガンディーの名が有名になっています。

ガンディーは「サティアグラハ(非暴力・不服従)」の原理に基づき、独立運動を率いました。1919年〜1922年の第1次非暴力・不服従運動と、1930年〜1934年の第2次非暴力・不服従運動が特に有名です。

1930年3月12日に始まった「塩の行進」では、塩の製造とともに外国商品のボイコット、植民地法への不服従、ストライキを訴えます。この塩の行進を率いたことで、ガンディーは逮捕されてしまいました。

1942年の「インドを立ち去れ運動」では、ガンディーはジャワハルラル・ネルーらと共に大きな独立運動を開始します。当時は、アメリカや中国からもインドの独立を認める圧力がありましたが、イギリスは貿易の重要拠点だったインドを手放せず、インドの独立を拒否しています。

ガンディーの行動理念は、宗教を超えた普遍的な人類愛の精神と非暴力を徹底した姿勢だったため、世界中から指示を集める結果となりました。

その他の重要人物

インドの独立運動では、「インド連邦の初代首相」ジャワハルラール・ネルー「インドのナイチンゲール」サロジニ・ナイドゥ「独立運動家」バル・ガンガーダル・ティラクらも重要な役割を果たしました。

様々な立場の運動家たちが連帯し、最終的にはガンディーの非暴力理念が勝利を収めたのです。ネルーはイギリスから独立後の初代首相に就任し、新生インドの立役者となっています。

インドの独立運動と第2次世界大戦

戦争

インドが独立運動を続ける最中、世界は第2次世界大戦へと突入していきます。

  • 大戦中のインドとイギリスの関係性
  • 日本軍のインド侵攻とガンディーの思想

めまぐるしく変わる世界情勢の中で、独立運動を続けたインドに焦点を当てていきます。

大戦中のインドとイギリスの関係性

1939年の第2次世界大戦開戦後、イギリスはインドの戦争協力が不可欠であると認識していました。しかし、国民会議派のガンディーやその後継者ネルーは戦争に抗議し、協力に反対を表明します。

ガンディーら国民会議派はイギリスの戦争遂行を妨げるべく非暴力不服従運動を展開しますが、全インド・ムスリム連盟はイギリスへの協力を決めてしまいます。その背景には、戦争終結後にムスリム国家として独立したいという思惑があったためです。

第2次世界大戦開戦が終了し戦勝国となったイギリスですが、かつての大英帝国時代の影響力は失われてしまい、インド帝国の統治も難しくなります。

ガンディーやネルーは「1つのインド」を掲げて説得を続けますが、戦争終結後もこの両者の思想は折り合いがつかず、それぞれが個別に独立するという形で決着しました。

その後もヒンドゥー教徒とムスリムとの対立は続き、21世紀に入った現在でも根本解決に至っていません。

日本軍のインド侵攻とガンディーの思想

1942年2月、日本軍はインパール作戦を発動し、インド侵攻を開始しました。

これを機に、インド国民会議派のスバス・チャンドラ・ボースが日本軍に接近します。ボースはインド国民軍を率いて、日本軍とともにインド独立を実現しようと考えていました。

一方、ガンディーは非暴力不服従運動を貫き、インドに侵攻してきた日本軍にも抵抗します。日本が敗戦するとインド国民軍の活動も停止し、戦後は反乱軍として裁判にかけられました。

インド国民軍の指導者だったボースは日本が敗戦するとインドを脱出しますが、途中台湾で死亡してしまいます。非暴力を説いたガンディーですら、独立直後にヒンドゥー教徒の過激派に暗殺される悲劇に見舞われました。

独立後のインドとイギリス・日本との関係

インドの洋館

1947年8月15日、ついにインドはイギリスから独立しました。

  • イギリス依存が続くインド
  • 日本とインドの協力関係

独立直後から現在の国際関係に至るまで、インドがイギリスや日本とどのような関係を築いてきたのかを解説していきます。

イギリス依存が続くインド

1947年8月にイギリスから独立したインドですが、かつての統治国イギリスとの関係は一夜にして正常化したわけではありませんでした。1950年にインド共和国憲法が施行されるまで、インドはイギリス連邦に属していたためです。

また、1950年に大統領制が導入されるまで、イギリス国王の代理として統治に当たるインド総督の地位も残っていました。経済的にもイギリス資本への依存から完全に脱することはできず、独立直後は植民地時代の名残が色濃く残っていました。

1962年の中印国境紛争時には、イギリスがインドに武器供与を渋るなどもあり、良好な関係とは言えない状況が続きます。

しかし、時間の経過とともに次第に両国の関係は改善され、現在ではイギリスはインドの貿易や投資面での最重要パートナーの1つとなっています。植民地支配の歴史を乗り越え、インドとイギリスはパートナーとしての互恵関係を築きあげることに成功しました。

日本とインドの協力関係

1952年、日本とインドは正式に国交を樹立しました。その後、日本はインドのインフラ整備、学校や医療の整備に多額の援助を続けています。

1958年には第1次円借款として180億円、1997年にはデリー高速輸送システム建設計画で147.6億円を貸し付けしています。近年では、2014年にデリー高速輸送システム建設計画で再び1,400億円を貸し付けしました。

インド人も日本から多額の援助を受けていることを知っているため、インドと日本は現在も経済協力を続け、良好な関係を続けています。

参照:日本とインドの関係|新旧の経済大国の今後についても解説

まとめ:インドは独立するまでに多くの時間と犠牲を払っている

ろうそく

インドがイギリスから独立するまでには、度々大きな独立運動がありました。しかし、ガンディーが独立運動の指導者になってからは非暴力理念を掲げていたため、大きな内戦をせずに独立を達成しています。

現在では、インドは世界中から注目を集めるほど経済成長を続けている国になっています。多くの活動家が人生を賭けて独立を成し遂げたからこそ、現在の豊かなインドが誕生したと言えるでしょう。